喜多三のこれまで
2012年も押し迫ったある日、クリスマス・ライブの準備に追われていたバンド仲間の古関正裕と鈴木聖子は、その合間に色々な音楽のジャンルについて話をしていました……
古関は若い頃、カントリーやグループ・サウンズなどのバンド活動をしていましたが、その当時は父の曲を演奏する、などということは全く考えもしませんでした。若者はその時代の流行の先端を追い求めるものですから。
そして社会人となり音楽とは無縁の生活をしていた古関ですが、リタイア後再び親父バンドなどの音楽活動を再開し、それと共に、いつか機会があれば父の曲を演奏してみたい、という思いが大きくなりました。
それは、父の音楽を含む昭和歌謡などのコンサートで、大勢のお客様が父の曲を喜んで聴いて、楽しんで歌ってくださるのに接したり、また父の生誕100年記念CD全集の企画に携わったりして、その音楽の素晴らしさを改めて認識したからでした。
とは言え、その思いを人に話す事はありませんでした。父の曲は基本的にオーケストラで演奏する曲で、昔からのバンドの仲間たちとの演奏には向いていないからでした。
しかしこの時ふと、長年プロのシンガーとしてあらゆるジャンルの歌を歌ってきた鈴木聖子なら古関裕而作品も歌ってくれるのではないのか?と思い「最近、機会があったら父の曲も演奏してみたいと思っている」と話をしてみると、鈴木は、古関裕而の音楽を改めてみんなに聞いてもらうのもいいし、しかも古関裕而の息子にしか出来ないライブをすれば、お客様にも喜んでもらえるのではないか、と思い「それはいいこと。是非お父様の曲のライブをやりましょう」と応えました。
父の曲を中心にやる音楽ユニット。それはその時まで考えたこともないアイディアでしたが、古関には、天啓の閃きのように思えました。そしてイメー ジが一気に湧き、すぐに具体的な話になりました。楽器編成はピアノとシンセサイザーとし、古関正裕がシンセに挑戦することとなりまし た。ピアノは鈴木聖子の学生時代からの友人、齊藤早苗にお願いする事に。そして素晴らしい行動力の持ち主の齊藤早苗はすぐに「武蔵小山のライブハウスを3月に押さえましょう」と古関にメールを寄こすのでした。
こうして、中身は全くの白紙のうちにライブの日取りのみが決まり、そしてライブユニットの名前も古関裕而の生家の屋号「喜多三」に決まり、古関は早速シンセサイザーを買い込み、年明けの2013年1月から始動することとなったのでした。
当初はライブハウスを中心に活動していましたが、2014年3月に大田区下丸子の大田区民プラザ小ホールで行った「歌とトークでつづる古関裕而とその時代」と題するライブが大好評を博し、以後活動の場をホール中心としています。
そのライブの特徴は、歌・演奏だけでなく、曲や歌手などにまつわるエピソードを、映像を交えて紹介するトークにあります。
そして2016年末に、それまでほぼ毎回ピアノを担当してきた齊藤早苗が辞めることとなり、それを契機に、「喜多三」は古関正裕と鈴木聖子の二人のデュオの呼称とし、ライブでは、毎回ゲスト・プレーヤーをお招きして、常に新鮮で、そして皆様に楽しんで頂けるパフォーマンスを目指しています。
明治42年 | 1909年 | 8月11日、福島県福島市大町にて誕生。本名は勇治。父三郎次、母ヒサ。生家は代々福島有数の呉服屋「喜多三」。母の実家は福島県有数の資産家の川俣の武藤家。 | |
大正3年 | 1914年 | 4-5歳 | このころ父親が蓄音機を購入。レコードを聴く。 |
大正5年 | 1916年 | 6-7歳 | 福島県師範付属小学校入学。3年生からの担任遠藤先生に唱歌や童謡作りを習う。家で卓上ピアノで作曲を始める。 |
大正11年 | 1922年 | 12-13歳 | 福島商業学校入学。 |
大正12年 | 1923年 | 13-14歳 | 福島ハーモニカ・ソサエティーに入会。ハーモニカ用の編曲や作曲を手がける。 |
昭和3年 | 1928年 | 18-19歳 | 福島商業学校を卒業。作曲家を目指す。この頃までに作曲法、管弦楽法などを独学で学ぶ。 在学中に関東大震災に着想を得た交響詩「大地の反逆」を作曲。 また当時仙台に在住していた、ロシア・ペテルブルグの帝室音楽院に留学しリムスキー・コルサコフに師事した金須嘉之進に幾度か学ぶ。 ペンネームを裕而とする。昭和5年5月まで、川俣の伯父の家に居候しながら、伯父が経営する川俣銀行に勤める。 |
昭和4年 | 1929年 | 19-20歳 | 英国の音楽出版社チェスター社の国際作曲コンクールに舞踊組曲「竹取物語」を応募・入選する。 |
昭和5年 | 1930年 | 20-21歳 | 1月に作曲コンクール入選の件が新聞で大々的に報道される。それをきっかけに文通が始まった内山金子(きんこ)と6月に結婚。裕而20歳、金子18歳。9月に山田耕作の推薦で日本コロムビアに専属作曲家として招かれ上京。 |
昭和6年 | 1931年 | 21-22歳 | 最初のレコード「福島行進曲」と「福島夜曲」を発売。早稲田大学応援歌「紺碧の空」作曲 |
昭和7年 | 1932年 | 22-23歳 | 1月に長女雅子誕生。 |
昭和9年 | 1934年 | 24-25歳 | 7月に次女紀子(みちこ)誕生。 |
昭和10年 | 1935年 | 25-26歳 | 「船頭可愛や」が初のヒット曲となる。 |
昭和11年 | 1936年 | 26-27歳 | プロ野球球団「大阪タイガース」(現在の阪神タイガーズ)の応援歌「大阪タイガースの歌」(六甲おろし)作曲。 |
昭和12年 | 1937年 | 27-28歳 | 「露営の歌」作曲。この頃劇作家菊田一夫と出会う。 |
昭和15年 | 1940年 | 30-31歳 | 「暁に祈る」作曲。このころから戦時中、数々の戦時歌謡を作曲。 |
昭和17年 | 1942年 | 32-33歳 | 軍派遣の慰問団でタイ、ビルマなどインドシナ半島を訪問。 |
昭和20年 | 1945年 | 35-36歳 | 終戦後NHKラジオドラマ「山から来た男」で菊田一夫とコンビを組む。 |
昭和21年 | 1946年 | 36-37歳 | 7月に長男正裕誕生。 |
昭和22年 | 1947年 | 37-38歳 | 7月NHKラジオドラマ「鐘の鳴る丘」放送開始。(昭和25年12月まで続く)大反響を呼ぶ。このドラマで初めてハモンド・オルガンを使う。 |
昭和23年 | 1948年 | 38-39歳 | 全国高等学校野球大会大会歌「栄冠は君に輝く」を作曲。 |
昭和24年 | 1949年 | 39-40歳 | 原爆の被災者の救援に尽力した永井隆博士の著書をもとにした「長崎の鐘」を作曲。 |
昭和27年 | 1952年 | 42-43歳 | 4月NHKラジオドラマ「君の名は」放送開始。今や伝説となる大ヒット番組となる。(昭和29年4月まで続く) |
昭和28年 | 1953年 | 43-44歳 | NHK放送文化賞受賞。この頃より、「高原列車は行く」「イヨマンテの夜」などのヒット曲を生み出しながら、昭和30年に東宝に招かれた菊田一夫とともに数々の舞台音楽を担当。「津軽めらしこ」「蒼き狼」「敦煌」などなど。 |
昭和30年 | 1955年 | 45-46歳 | 日劇にて作曲生活25周年記念ショー。 |
昭和36年 | 1961年 | 51-52歳 | 東宝芸術座において「放浪記」初演。 |
昭和39年 | 1964年 | 54-55歳 | 東京オリンピックの入場行進曲「東京オリンピックマーチ」を作曲。 |
昭和44年 | 1969年 | 59-60歳 | 紫綬褒章を受章。 |
昭和47年 | 1972年 | 62-63歳 | フジテレビ「オールスター家族対抗歌合戦」放送開始。昭和59年まで審査委員長を務める。 |
昭和54年 | 1979年 | 69-70歳 | 福島市名誉市民。勲三等瑞宝章受章。 |
昭和55年 | 1980年 | 70-71歳 | 日劇にて作曲生活50周年記念ショー。自伝「鐘よ鳴り響け」を出版。7月妻金子逝去。 |
昭和61年 | 1986年 | 76-77歳 | 健康上の理由で30年間音楽を担当したNHKラジオ「日曜名作座」を降板。作曲生活より引退。 |
昭和63年 | 1988年 | 78-79歳 | 11月福島市古関裕而記念館開館。スケッチ集「風景の調べ」を自費出版。 |
平成元年 | 1989年 | 80歳 | 8月18日逝去。生涯に約5000曲を作曲した。 |
明治42年、喜多三呉服店 裕而三歳の頃 昭和7年、長女雅子と 昭和30年日劇にて |
|||
主な作品 | |||
流行歌・戦時歌謡 | 「船頭可愛や」、「愛国の花」、「露営の歌」、「暁に祈る」、「若鷲の歌」、「長崎の鐘」、「イヨマンテの夜」、「あこがれの郵便馬車」、「高原列車は行く」、「雨のオランダ坂」、「フランチェスカの鐘」、「白鳥の歌」 | ||
ドラマ・映画 | 「とんがり帽子」、「夢淡き東京」、「君の名は」、「黒百合の歌」、「モスラの歌」 | ||
マーチ・応援歌など | 早稲田大学応援歌「紺碧の空」、 「阪神タイガースの歌(六甲おろし)」、「巨人軍の歌」、「栄冠は君に輝く(全国高校野球大会の歌)」、「東京オリンピックマーチ」「スポーツショウ行進曲(NHKスポーツ番組テーマ)」 | ||
劇・ミュージカル | 「敦煌」、「蒼き狼」、「津軽めらしこ」、「風と共に去りぬ」、「がめつい奴」、「放浪記」 |