『エール』 VS 本当の話―16 ふたりの「結婚」
古関裕而と内山金子の「結婚」
写真は「古関三郎次が出したふたりの祝言の案内状」と「東京世田谷の新居近くで裕而に買ってもらった日傘を持つ金子と裕而」
三郎次が出した挨拶状
世田谷代田の新居近くでの二人。金子は裕而に買ってもらった日傘を持っている。
古関裕而と内山金子はいつ「結婚」したのか?
裕而と金子がいつ結婚したか、なんてどうでもいい話ですが、なぜこんなことを書くのかというと、多くの本などで間違った記述があるからで、一応後々のために正しておこうと思います。
かく言う私も10年ほど前までは、他の方の本の記述を鵜呑みにして、父母は昭和5年6月1日に福島で祝言を挙げた、などと発言したり書いたりしていましたので、大きなことは言えません。
はっきり言っていつ両親が結婚したのかは定かではありません。
結婚の定義をどう定めるかにもよりますが、一応社会通念上は、結婚式を挙げる、披露宴をする、入籍するのどれかで、当事者二人にとっては、同棲・同居を始める、というのもありと思います。このどれをとっても、昭和5年6月1日は結婚記念日とはなりえません。
父と母の場合、昭和5年の5月23日付の手紙は残っているので、このときまでは福島と名古屋にいました。その手紙で父は、(あまりに熱情のせいで苦しいので)4,5日手紙を休む、などと書いています。ですので父が母に会いに行ったのはこの後で、途中東京で一泊して従兄から背広を借りたりしていますので、名古屋にいた母と会ったのは、どんなに早くても5月26日ごろではないかと推察します。
そして豊橋の家に厄介になり、ふたりが結婚すると言うので慌てて福島から裕而の父、三郎次が挨拶に来て、でも一緒に福島には帰らず、父と母は日本ライン下りに出掛けたり(これが実質的な新婚旅行だという人もいますが、今風に言えば婚前旅行というところでしょう)、豊橋で音楽会を開いたり(エールにも同様なエピソードがありました)して、母の姉の清子によれば、一か月近く豊橋にいたそうです。そしてふたりで福島に行く途中では、東京で数日を過ごし、父の従兄や母の姉に互いを紹介したり、銀座に行き、母は、父が日傘を買ってくれて嬉しかった、とか松屋デパートで初めてとんかつを食べて、毎日こんなに美味しいものを食べれるようになりたいと思った、などとその時の思い出を語っていました。
ですから二人が福島で実質的な新婚生活を始めたのは、どんなに早くても昭和5年6月中旬以降だと思われます。そして9月にはふたりで上京しています。
記録に残っている日付としては、戸籍上の入籍日は昭和6年2月9日で、父三郎次が親戚・縁者に宛てたふたりの婚姻の挨拶状では「昭和6年5月19日婚姻の式」と書かれています(写真参照)。
想像ですが、昭和6年5月ごろは、時期的に長女雅子を妊娠している頃ですので、赤ちゃんが生まれる前に挙式をという、今でいう出来ちゃった婚を挙げたのではないかと想像します。
今思うと、90年前の二人は、当時としては、ぶっ飛んでいた二人だったのだなあと思います。
そして父も母も、こういう二人の「正式な結婚?」に至る経緯は子供たちには一言も話しませんでした。話せなかったのかもしれません。
子供たちには、結婚するまでは純潔を守るように、などと教育していたのですから。
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