最初は昭和13年秋、日中戦争で中支に派遣されていた日本軍に従軍しました。
同行は詩人は西條八十、佐伯隆夫、作曲家は他に飯田信夫と深井史郎でした。
上海から南京を経由して揚子江を遡って九江まで行きました。
南京では林芙美子に会っています。後年放浪記の舞台音楽を手掛けることになりますが、林芙美子と父はこの時一度会っただけでした。
揚子江遡上中は、川岸から砲撃されたりしましたが無事九江に到着。現地で久米正雄、石川達三などの文壇からの従軍部隊と合流しました。陸軍病院の慰問に行った際、露営の歌の作曲者として紹介され、舞台に上がりましたが、多くの兵隊の顔を見たとき、このひとりひとりに無事に帰ることを願っている親や妻や子がいて、果たしてこの中の何人が、と思うと、涙が溢れて来て絶句して一言も喋れなかったそうです。
この従軍には愛用の9ミリ半のカメラを持参していて、生々しい戦争の傷跡などが収められています。
次は昭和17年10月、NHKから慰問団として司会の徳川夢声以下歌手や楽団、総勢37名ほどの大人数で、シンガポールからビルマを経由して中国の雲南まで行き戻ってくるという長旅で、クアラルンプールで昭和18年の正月を迎えて、日本には2月上旬に帰国しています。
そして三度目が今「エール」で描かれているインパール作戦の従軍で、昭和19年4月中旬に出発。同行は画家の向井潤吉、作家の火野葦平。向井さんと火野さんは最前線の奥地まで行きましたが、父はラングーンに留まり、「ビルマ派遣軍の歌」などを作曲しています。ビルマは雨季で伝染病も流行り、父はデング熱に感染しました。7月にインパール作戦は中止となり、すぐ帰国と思いきやサイゴンに行ってくれと頼まれ、サイゴンで音楽会やレコードの吹き込みを行っています。結局帰国したのは8月末で、その間に福島の母が亡くなり、死に目には会えませんでした。
この三度の従軍については、父の自伝「鐘よ鳴り響け」(集英社文庫刊)に詳しく綴られていますので、ご興味がある方は是非ご一読下さい。(九)