「エール」では、池田二郎(菊田一夫)が映画「長崎の鐘」の主題歌を書かないか、と話を持ってきたことになっていますので、「長崎の鐘」は菊田一夫作詞と思っている方もいるようです。
実際は永井隆博士が原爆の惨状を描いた本「長崎の鐘」(1949(昭和24)年1月発売)が大ベストセラーとなり、この本に感動したサトウハチローが作詞し父が作曲して藤山一郎の歌唱でレコード化して1949(昭和24)年7月に発売され、この歌も大ヒットしました。
レコーディング当日、藤山一郎は体調を崩し、40度近い高熱を出しましたが、関係者が皆スタジオに集まっていたため、無理を押してレコーディングに臨み、本人は満足できる歌唱でないため後日録り直しを望みましたが、逆にはかない歌声が曲にマッチしていると周囲は絶賛し、そのまま発売されることになりました。
本と歌がヒットしたので、翌1950年に松竹が映画化しました。
ですので実際には菊田一夫は「長崎の鐘」には関わっていません。
歌「長崎の鐘」に感激した永井隆博士は感謝の意を込めて、サトウハチロー、藤山一郎と父の三人に「新しき朝の」という短歌を贈りました。
父はこれにも長崎の鐘と続けて歌うように曲を付けましたが、藤山一郎も自身で作曲して、ラジオやテレビで歌っていましたので、藤山一郎に遠慮してか、父は自作を発表しませんでした。
父の没後、音楽博士で声楽家の藍川由美が古関裕而記念館で「新しき朝の」の楽譜を発見し、自身の歌唱でCDアルバム「古関裕而歌曲集」に収録しました。この歌唱は「古関裕而全集」(2009年、日本コロムビア)にも収められています。
父は永井隆博士とはお会い出来ないまま、1951年に永井博士は他界されました。
その後、残されたお子さん達にお会いし、励ましています。
永井博士からは、博士自らが作られたという手作りのロザリオを頂き、それは古関裕而記念館に展示されています。
今まで「エール」で紹介された父の曲で、作詞家の名前が登場しないのは「長崎の鐘」が初めてなので、何故だろう?と思っています。そして皆ほとんど変名なのに、何故か西條八十だけは実名だったり、ここら辺、色々な事情があるのかも知れませんね。近々制作スタッフに会う機会がありますので、訊いてみようかと思っています。(九)