古関金子(18歳頃)
古関金子(きんこ)は古関裕而の妻、つまり私の母です。
父のことはこのHPにも略歴など載せていますし、皆さんご存知ですが、母のことは知られていないので、今日は母のことについて、書いてみます。
母は明治45年(1912年)3月6日に内山安蔵、みつの三女として豊橋市で生まれました。
家族は長兄と女6人姉妹で、家業は陸軍に物資を納入する業者だったそうです。
母の父安蔵は母が12歳のときに早死して、その後母みつがが女手一つで家業をしながら子育てをしたそうです。
私の父方の祖父母は私が生まれる前に亡くなっているので、母の母が、私が唯一知っている祖母です。
その祖母も私が6歳の頃に亡くなっているので、おぼろげな記憶しかありません。
金子は子供の頃から活発で、お転婆で、音楽と文学が好きで、いつも空想の世界に浸っていた少女だったらしいです。
女学校の頃から将来はオペラ歌手を目指していたようですが、そのきっかけは何だったのか、知りません。姉妹の中でも、音楽の道に進んだ人はいないので、血筋だったのかどうかも、知りません。
こうやって母のことを書こうとすると、何も知らないことに驚きます。生きているうちに、もっと色々訊いておけば良かった、と今更ながら後悔しています。
母の兄、勝英は満州に渡り、向こうで事業をしていて、金子は女学校を卒業するとすぐに満州の兄のところに遊びに行き、その帰りに、乗っていた客船が座礁・沈没という出来事に遭遇し、そのときは死を覚悟したと、よく話していました。
昭和5年1月に母は「福島の無名の青年が国際作曲コンクールで入賞」という新聞記事を読み、素晴らしい人がいるものだと感心し、持ち前の行動力から、すぐにその青年に手紙を書きます。その青年とは勿論古関裕而です。
丁度同じ時期に、母は家の家計を助けるために、知人の紹介で、名古屋の雑誌発行人のもとで、雑誌の編集の手伝いを住み込みで始め、同時に声楽の先生について、歌の勉強を始めます。
古関と4ヶ月ほど文通のみの交際をしていましたが、互いに恋心が芽生え、そしてその年の6月には、豊橋まで会いに来た古関について福島に行き、そのまま結婚します。
そして昭和5年の秋に、日本コロムビアからの招きで裕而と金子は上京し、暫くは、阿佐ヶ谷に住んでいた金子の長姉の家に居候して家を探し、コロムビアとの契約がまとまり裕而が正式にコロムビアの専属作曲家になった昭和6年に、世田谷代田に家を構えます。
当時近くに帝国音楽学校という音楽学校があり、金子はそこでベルトラメリ能子(よしこ)に師事し、本格的に声楽の勉強を始めます。当時一緒に声楽を勉強していた学生に、後に歌手になる伊藤久男がいたほか、ベルトラメリ能子の門下生には蘆原邦子もいました。
母の声楽の才能は抜きん出ていて、その声は中山晋平にも絶賛されていたようです。
ベルトラメリ能子の門下生の中では一番弟子で、カヴァレリア・ルスティカーナとかトスカとかの舞台を踏んだようです。
戦後、私が生まれると、子育てに専念するために声楽を止めたので、私は母がよく歌っていたのは覚えていますが、その録音などは残念ながら残っていません。
子育てに専念(?)したせいか、私にとっては過干渉な過保護の母で、私はしょっちゅう反発してましたが、やがてうまく対処することを覚え、母の意見や小言は適当に、ハイハイと聞き流すようになり、母は私のことを素直な良い子だと思っていたようです。
私が結婚したときは、両親と二世帯住宅での同居で、孫の子育てをめぐって、口を出さずにはいられない母の性格から、お決まりの嫁姑バトルもありましたが、別居するようになってからは、うまく行くようになりました。
母は昭和55年(1980年)7月23日に、乳ガンが全身に転移して、68歳で亡くなりました。
私も今年、同じ68歳になり、随分早く亡くなってしまったと、もう少し長生きしてほしかったと、母のことを想っています。(九)