次いで、9月8日の記事です。
オリンピズム 64年東京のいまを歩く-21
「愛されるものこそ長く残る」
愛されているから長く伝えられる。伝えられてきたからこそ、より愛される。
(中略)
過日、福島市の古関裕而記念館を訪ねた。館長の佐藤太が話す。「いまも古関作品に触れたいと全国から訪れる人が絶えない」
帰りがけの東北新幹線福島駅で、初めて気づいた。発車メロディーは『栄冠は君に輝く』なのである。
夏の甲子園の大会歌が毎日、福島に流れることがうれしい。甲子園球場を揺るがす「六甲颪」、正式には『大阪タイガースの歌』とともに古関の代表作だ。
巨人軍の『闘魂込めて』や早稲田大学応援歌『紺碧の空』、慶應義塾大学応援歌『我ぞ覇者』…長く、広く歌い継がれるスポーツ応援曲の多くが古関の頭のなかから生まれていった。
(中略)
正裕によれば、父が「大変、名誉で光栄なことだと話していた」曲がある。1964年大会開会式の入場行進曲『オリンピック・マーチ』。61歳の私はすぐにメロディーが思い浮かぶ。
58年の『オリンピック賛歌』編曲で称賛を浴びた古関が入場行進曲を依頼されたのは62年ごろ。その年の暮れ、正裕は声楽家をめざし音楽に心得のある母・金子と映画『史上最大の作戦』を見に行った。家に帰ると母は「(曲作りは)大丈夫?」と父に聞いた。すると父は「任せておけよ」、胸をたたいたという。
そして世界の若者を鼓舞するマーチが創られた。
福島の老舗呉服店・喜多三の御曹司に生まれた古関には家督を継ぐ道が敷かれていた。しかし、音楽への夢断ち難く、独学で音楽家の道を歩んだ。自身の思いが曲作りに反映していたといえなくはない。
正裕は新聞社勤務を終えた後、喜多三の名で好きな音楽活動を始めた。最初はアメリカン・ポップス、いまは古関作品の伝道者に。改めて人々に作品が愛され続ける父の非凡さを知った。
レガシーは残すものであり残るものである。
(特別記者 佐野慎輔)