続々と刊行される「古関裕而本」、全ての本に共通している記述に「オリンピック・マーチは昭和38年2月に組織委員会から作曲の依頼があった」というくだりがある。一部の本には昭和39年と間違っているのもある。
私が編纂した、生誕100年記念のCD全集の解説本の福田滋さんの「オリンピック・マーチ」の解説にもそう書かれている。その記述の根拠を福田さんに訊ねたところ、どこかで読んだか見た、とのこと。
そのままにしておいたが、このところ気になって、その根拠を探したらどうも2000年に歴史春秋社から出版された齋藤秀隆先生の労作「古関裕而物語」の中にこんな記述があるのを見つけた。
「『オリンピック・マーチを作曲して欲しいという話が、組織委員会とNHKからあったのは去年(昭和38年)の二月でした。六月には完成しましたが、考えている時間が長く、ペンをとったら一気に書き上げました』とサンデー毎日のインタビューで古関は述べている」
このインタビューが載ったサンデー毎日の実物は見ていないが、なんと父本人がそう語っているのなら、それが本当と誰もが思うだろうが、事実とは異なる。
何故父がこう語ったのかは分からないが、もしかすると公式な依頼は昭和38年(1963年)の2月で、その時に契約文書などを取り交わしているのかもしれない。
しかし実際は1962年の年末にはすでに父はオリンピック・マーチの構想を練っていた。
以下の話は、私は何度か新聞などの取材で話しているが、あまり記事にはなっていないようだ。
1962年暮れ、ハリウッド映画のオールスター・キャストの大作「史上最大の作戦」が封切られた。
第二次世界大戦末期の連合軍によるノルマンジー上陸作戦を描いた映画で、ジョン・ウェイン、ロバート・ミッチャム、ヘンリー・フォンダ、リチャード・バートンなどのスター総出演の他、主題歌の「史上最大の作戦マーチ」(原題The Longest Day)は当時人気絶頂のポップ歌手ポール・アンカの作曲ということでも話題になり、私も当時の若者(当時16歳)に漏れず、ポール・アンカのファンで、このマーチも知っていた。
私は母と新宿のミラノ座にこの映画を見に行った。
映画を見た帰り、母は「あのマーチ、とってもいいわね」と言っていて、家に帰るなり父に「あなた、史上最大の作戦のマーチってとってもいい曲よ。オリンピック・マーチは大丈夫なの?」と訊いた。
父は「ああ、大丈夫。任せておけ」と即答した。
その言葉に私は父の自信を見た。
勿論その時父がオリンピック・マーチを依頼されていたことは、少なくとも家族は皆知っていた。
だからオリンピック・マーチの依頼は、実際には1962年暮れより前、おそらく秋ごろだったのではないかと思う。
オリンピック・マーチが1964年10月10日の開会式で初めて演奏された、と思っている向きもあるようだが、実際にはその前年のプレ・オリンピックで演奏されていて、オリンピックが始まる以前からレコードや朝日ソノラマのソノシートなど発売されていた。
余談だが、そのころ巷では三波春夫が歌う「オリンピック音頭」(古賀政男作曲)が大ヒットしていて、私はマーチより音頭の方が儲かるよな、と羨ましく思っていた。もちろん今では、音頭でなく、マーチを作って良かったと思っている。
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