『エール』ではふたりの文通交際は簡単にしか紹介されていませんでしたが、裕而と金子は約4か月間に百数十通の手紙をやり取りしていました。
昭和5(1930)年1月末頃、裕而が国際作曲コンクールで入賞したという新聞記事を見て、金子がファンレターを送ったのがきっかけです。
そして互いに音楽のことを語り合える友達が周りにいなかったせいでしょう、二人は音楽のこと、自分の夢などを綴るうちに、やがて手紙はラブレターとなり、そしてどうしても会いたくなった裕而は福島から豊橋まで金子に会いに行き、そしてそのまま福島に連れて帰り、実質的な新婚生活を福島で始めます。
『エール』では裕一は福島に戻り、音は姉と東京で帝国音楽学校に入学の準備を始める・・・、と言う話で、実際とは違います。
そして昭和5年9月に山田耕筰の推薦でコロムビアから専属作曲家として迎えられて、二人は上京し、しばらく東京阿佐ヶ谷にいた姉夫婦の家に居候しながら家を探し、帝国音楽学校の近くの世田谷中原(現在の世田谷代田)に家を借りました。
この二人がやり取りした手紙の多くは、夫婦喧嘩をした際に金子が怒って燃やしてしまいましたが、約50通の手紙が残されております。
文通の詳しい経緯についてご興味があれば、この残された手紙をもとに二人の交際を小説として描いた拙書「君はるか」(集英社より発売中)をお読み頂ければ幸いです。
(以上、宣伝でした。)