『エール』 VS 本当の話―7 帝国音楽学校
本当の帝国音楽学校。
(写真は帝国音楽学校第一回卒業式と世田谷中原駅(現在の世田谷代田駅)ホームでの裕而と金子の妹たち)
最前列の犬を連れた男性とその左隣りの外国人女性の間(2列目)が金子。1931年春頃。
右から、金子のすぐ下の妹松子、その娘の寛子、末の妹寿枝子、裕而。1940年1月
『エール』で東京帝国音楽学校として登場する学校は、昭和3(1928)年から昭和20(1945)年まで東京市荏原郡世田谷町代田(現在の世田谷区代田)に存在した帝国音楽学校をモデルとしています。学校は小田急線世田谷中原駅(現世田谷代田駅)のすぐ裏にありました。
ネットで調べると、第一次帝国音楽学校(1928年~)とか第2次帝国音楽学校(1931年~)とか出てきますが、経営陣の内紛が頻繁にあったようでゴタゴタ続きの学校だったようです。でも教授陣はかなりの実力者を揃えていて、レベルは高かったようです。
帝国音楽学校(以下帝音と略す)の教授陣には、ロシアのバイオリニスト、アレクサンダー・モギレフスキー、バイオリンの英才教育鈴木メソッドで著名な鈴木鎮一、作曲家の菅原明朗、後に属(さっか)澄江と結婚し属姓となる音楽評論の朴啓成、ピアニストの属澄江、声楽家の平間文壽などがいます。
金子はこの学校に昭和5(1930)年秋に入学していますが、長くは通わずに中退しています。昭和6(1931)年暮れに長女を出産していますので、多分そのころ中退したのではないかと思います。
金子はその後ベルトラメリ能子(よしこ)の門下生となり、声楽の勉強を続けます。
裕而はコロムビアの専属作曲家となった後に、菅原明朗について和声学などを勉強したと自伝に書いていますが、それもおそらく帝音の繋がりではないかと思います。
また裕而のいちばん仲が良かった母方の従兄、今泉正もこの学校で声楽を学んでおり、学長だった北昤吉(きた れいきち。北一輝の弟。後に衆議院議員となり自民党政調会長などを務める。)の長女と結婚しています。(後に離婚)
写真は帝音の第一回卒業式のもので、昭和6年3月ごろの写真と思われます。
帝音の本科は3年制でしたので、昭和3年入学第一期生が昭和6年の卒業となります。
このときの卒業生は、昭和9(1934)年発行の同窓会誌によると9名ですので、写真には教授陣のみならず在校生も全て写っているようです。
金子は最前列の犬を連れた男性とその左隣りの外国人女性の間(2列目)にいます。
属澄江さんは第一期卒業生で、属啓成さんも先生なので、この写真に写っているはずですが、よく分かりません。
何故属夫妻にこだわるかというと、個人的なことですが、私が小学校に入学したとき、母は私を属さんのお宅に連れて行き、そこでピアノを習わされることになったからです。子供心で何も分かりませんでしたが、そこでは常時何人もの大人(多分大学生?)のお姉さんたちがいて、集団レッスンなのかよく分かりませんが、順番に先生の前でピアノを弾いていました。あとで知りましたがその頃、属澄江先生は国立音大のピアノ科の教授でした。そんな中で、授業を終えた小学一年生がバイエルなどを習っていたのです。
永らく何故母が、小学生の初心者の私をそんな大先生に付けたのか謎でしたが、帝音のことを調べていてようやく、帝音で母と属夫妻は知り合いだったのだと、合点が行きました。
でも初心者の子供をこんな大先生に付けるなんて、一体母は何を考えていたのか、?です。私はピアノより遊ぶ方が面白く、練習はいつもさぼっていましたので、さすがに高い月謝を払うのはもったいないと母も思ったのでしょう、中学からは姉の友人に習うようになりました。
属澄江先生の姪御さんは私と小中高と学校が同期で、私が喜多三を始めた頃、「あなた、ピアノは属澄江に師事と経歴に書けば箔がつくわよ」と冗談を言われました。ですのでこれからの私の音楽歴には、ピアノ(バイエル、ソナチネ)を属澄江氏に師事、と書こうかと思っています。
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