今日(5月18日)の『エール』では、1931(昭和6)年秋の早慶戦に間に合うよう、早稲田大学応援部が新しい応援歌を作ろうと動き出しましたが、本当はその年の春です。
ドラマでは、作詞者の住治男、選者の西條八十は実名での紹介でした。
主要な役どころ、野村俊夫、伊藤久男、古賀政男、藤山一郎などは名前を変えての登場で、この辺の扱いの違いは微妙なところですね。
「紺碧の空」の作曲の依頼は、当時早稲田の応援団にいた伊藤久男の従兄弟の伊藤戊(しげる)が縁です。
ドラマの通り、当時堀内敬三作曲の新応援歌「若き血」で盛り上がった慶應義塾に連敗続きだった早稲田は、新しい応援歌を求めて学内で詞を公募し、住治男の「紺碧の空」が選ばれました。
選者だった当時早稲田の教授の西條八十は「この詩は素晴らしいが、作曲は相当難しいだろう。相当な謝礼を積んで、著名な大家に頼まないと良い曲は出来ないだろう」と語ったと言われています。この言葉にお金のない学生たちは、金で済ませるとはなんたること、と反発し、伊藤戊がかねて従兄弟の伊藤久男を通じて面識のあった父を推薦します。全く無名の同世代の新人に託すことに反対する意見もありましたが、伊藤は「古関には名声も実績もないが、将来がある。その将来に賭けよう」と部内を説得したと言われています。
父はそれまで応援歌作曲の経験もなく、かなり苦労したようです。なかなか出来ず、しびれを切らした応援団の学生達が連日大挙して催促に訪れ、安普請の借家の床が抜けるのではないか、と母はヒヤヒヤしていたそうです。
そしてようやく完成した「紺碧の空」が歌われた1931(昭和6)年春の早慶戦で早稲田が久々に勝利したことで、一気に「紺碧の空」は有名となり、第六応援歌として作られましたが、いつしか第一応援歌となりました。
当時の応援団のOB達は「早大春秋会」という会を作り、創立メンバーの二世たちや早稲田のOBによって今も続いていますが、その春秋会が発起人となって1976(昭和51)年に「紺碧の空」誕生45周年を記念して、早稲田の大隈会館近くに歌碑を造りました。
碑の除幕は裕而の孫(私の娘)や春秋会の方々のお孫さん達で行われました。
この春秋会のメンバーと父はほぼ同世代でもあり、終生交流が続いていました。
鳥取県日野町には春秋会のメンバーの勝瀬氏が作られた紺碧寮という施設があり、父は春秋会の幹部メンバー8名(勝瀬、土倉、小出、伊藤、寺田、田村、伊達、溝口の各氏)と共に1977(昭和52)年に訪問しています。
なお作詞の住治男氏は1936年に早逝されています。
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