古賀政男は元来は作曲家ではなく社員としてコロムビアに入社し、その後作曲家に転身しました。ドラマの中にもありますが、古関裕而と古賀政男は、入社したての若い頃は、よく互いに夢などを語り合ったそうです。
そしてドラマでも歌われましたが、古賀政男は「影を慕いて」「酒は涙か溜息か」「丘を越えて」などのヒット曲を立て続けに放ち、流行歌の作曲家として、ゆるぎない地位を確立したのは、皆さんご承知の通りです。。
藤山一郎は本名を増永丈夫といい、東京音楽学校(現在の東京藝術大学)の声楽科在学中から、家計を助けるためにアルバイトでレコードの吹き込みをすることに。しかし当時、アルバイトは禁止されていたため、変名を使って隠れてしていましたが、「酒は涙か溜息か」と「丘を越えて」が大ヒットとなったため、正体がばれてしまいます。
「酒は涙か溜息か」のレコードは昭和6年9月発売で、この2か月前、藤山一郎は「平右衛門(へいねも)」という古関裕而作品をレコーディングしています。これは北原白秋のざれ歌のような詩に作曲した歌で、北原白秋は大いに気に入り、山田耕筰も褒めたという曲ですが、残念ながらヒットという訳には行きませんでした。
アルバイトはバレましたが、なんとか退学はまぬがれ、藤山一郎は最優秀の成績で卒業し、クラシックを歌うときは本名で活動していました。その後、流行歌の世界から退くつもりでしたが、終戦時インドネシアで捕虜となり抑留されているとき、歌を通じてイギリス兵などと交流し、歌の持つ力を改めて認識し、流行歌の世界にとどまる気になったそうです。
藤山一郎は後に「私が流行歌の世界に戻ったのは、服部良一さんと古関裕而さんがいたからだ」と語っています。
(九)