BLOG

『エール』 VS 本当の話―14 古関金子のこと

『エール』 VS 本当の話―14 古関金子のこと

本当の古関金子のこと

 

写真は豊橋高女の卒業アルバムの金子、戦前、オペラを歌っていた頃と戦後、株式投資に熱中していた頃の金子。

 

豊橋高女24会卒業アルバム個人写真Up.jpg 昭和3年豊橋高女の卒業アルバム

 

1940年日本青年館 -Up.jpg 昭和15年 ベルトラメリ能子の門下生の発表会でトリで歌う金子。日本青年館にて。

 

1941.05.13イタリア歌劇の夕べ.JPG 昭和16年、イタリア歌劇の夕べに出演。金子は左端。中央は当時有名だったテノールの神宮寺雄三郎氏。

 

1954年5月週刊朝日-Up.jpg 昭和29年、株式投資に熱中うしていた頃の金子。

 

 

2014723日のBLOGで、「今日は古関金子の命日」と題して母のことを書きましたが、きちんと調べもせずに、おぼろげな記憶だけで書きなぐった文章でした。

その後、この文章があちらこちらで引用されていることに気づきました。母に関する資料は乏しいので、どうも引用されることが多いようです。

そこで、前回誤っていた箇所などを修正・加筆して、大幅に書き直しました。

尚、豊橋市中央図書館で開催中の企画展「内山金子とその時代展」のために丹念に母のことを調べた同館の主幹学芸員岩瀬彰利氏の、東愛知新聞に10回に渉って連載された記事を大いに参考にさせて頂いております。

 

古関(旧姓内山)金子(きんこ)は明治45年(1912年)3月6日に内山安蔵、みつの三女として豊橋市で生まれました。

兄姉妹は、長兄の勝英、長姉富子。次姉清子、三女金子、四女松子、五女貞子、六女寿枝子の男1人女6人の兄姉妹です。

父安蔵は元々は軍の獣医で、後に陸軍に馬の飼料や蹄鉄などの物資を納入する商売をしていましたが、金子が12歳のときに早死して、その後母みつが女手一つで家業を継ぎながら子育てをしました。

私の父方の祖父母は私が生まれる前に亡くなっているので、母の母が、私が唯一知っている祖母です。

その祖母も私が6歳の頃に亡くなっているので、おぼろげな記憶しかありません。

金子は子供の頃から活発で、お転婆で、音楽と文学が好きで、いつも空想の世界に浸っていた少女だったらしいです。

小学生の頃、学芸会でかぐや姫を演じ、大変好評でかぐや姫という綽名がついたこともあったそうです。豊橋高等女学校に進学し、この頃から将来はオペラ歌手を目指していたようですが、そのきっかけは何だったのか、分かりません。姉妹の中でも、音楽の道に進んだ人はいないので、血筋だったのかどうかも、分かりません。

こうやって母のことを書こうとすると、何も知らないことに驚きます。生きているうちに、もっと色々訊いておけば良かった、と今更ながら後悔しています。

母の兄、勝英は母より11歳年上で、妹の中では特に金子のことを可愛がっていたそうです。金子は父親にも特別に可愛がられて、他の姉妹から羨ましがられていたそうですので、大人から可愛がられるような愛嬌のある子どもだったのでしょう。

兄は父亡きあと満州に渡り、向こうで事業をしていて、金子は女学校を卒業するとすぐに満州に遊びに行き、半年も滞在しています。その帰りに、乗っていた客船が座礁・沈没という出来事に遭遇し、そのときは死を覚悟したと、よく話していました。

昭和5年1月に母は「福島の無名の青年が、舞踊組曲『竹取物語』で国際作曲コンクールで入賞」という新聞記事を読み、素晴らしい人がいるものだと感心し、その曲がかぐや姫を題材にしていることに縁を感じ、持ち前の行動力から、すぐにその青年に手紙を書きます。その青年とは勿論古関裕而(本名勇治)です。

その年の4月から、母は家の家計を助けるために、知人の紹介で、名古屋の雑誌発行人のもとで、雑誌の編集の手伝いを住み込みで始め、同時に声楽の先生について、歌の勉強を始めます。

母と裕而は4ヶ月ほど文通のみの交際をしていましたが、互いに恋心が芽生え、そしてその年の5月末には、名古屋まで会いに来た裕而を豊橋の実家で母・姉妹に紹介し、裕而について福島に行き、そのまま(事実上の)結婚をします。今でいう同棲婚です。

時折、昭和5年6月1日に福島で結婚、としている記事などを見かけますが、これは誤りです。入籍は昭和6年2月9日で、この年の6月1日に福島で親戚などに披露する祝言を開いています。昭和6年6月1日を昭和5年と勘違いしている方が多いのだと思います。

昭和6年12月には長女雅子を出産しています(戸籍上の雅子の誕生日は昭和7年1月2日)ので、おそらく子供が生まれる前に、正式な披露をしたのだと思います。今で言ったら出来ちゃった結婚! 出来ちゃった結婚が当たり前のようになるのは、平成になってからではないかと思いますので、時代を60年以上も先取りしていたことになり、驚きです。

そして驚くにはもう一つ理由が・・・。金子は自分の子供たちには、結婚するまでは純潔を守るように、などと私から見れば古めかしいことを言っていましたので、こんな事実を知ると、母は自分のことを棚に上げて、何を言っていたのかと思いますが、もしかすると、ちょっぴり反省もあったのかも知れません。

 

話を戻して、父と母は豊橋から福島に行く途中に東京で数日を過ごし、東京にいた長姉や裕而の従兄を互いに紹介しました。

母は、銀座の松屋デパートの食堂で初めてとんかつを食べて、こんな美味しいものを毎日食べられるようになりたいと思った、と食いしん坊らしい思い出を話しておりました。

福島の家で、裕而の両親と3か月ほど一緒に暮らし、そして昭和5年9月に、日本コロムビアからの招きでふたりは上京し、暫くは、阿佐ヶ谷に住んでいた金子の長姉の家に居候して家を探し、帝国音楽学校という学校があった世田谷代田に家を借り、金子はそこに入学し、本格的に声楽の勉強をします。しかし長女の妊娠・出産を機に退学したようです。

そして昭和9年に次女紀子(みちこ)を出産してから、ベルトラメリ能子(よしこ)に師事し、本格的に声楽の勉強を再開します。

ベルトラメリ能子の門下生の中では一番弟子で、先生から「あなたは私の後継者よ」と言われていたそうです。

門下生発表会ではトリを務め、昭和16年には「イタリア歌劇の夕べ」という会で、当時の有名なオペラ歌手などと競演し、「カヴァレリア・ルスティカーナ」「アイーダ」とか「トスカ」などの舞台を踏んだようです。しかし戦争により声楽の活動は中断となります。

戦後はベルトラメリ能子が鎌倉に引っ込んだままでしたので、能子の師である芸大教授のディーナ・ノタルジャコモに師事します。

そして昭和21年に私が生まれるとやがて、子育てに専念?するために声楽を止めます。

昭和24-25年にNHKラジオで東郷静男作、作曲古関裕而の三つの創作オペラを、藤山一郎、山口淑子、古関金子他で放送したのが、声楽家としての最後活動でした。この放送は、当時はテープは非常に貴重なものでしたが、録音され進駐軍によってアメリカに送られた、とのことですが、その所在は不明です。

私は母がよく歌っていたのは覚えていますが、その録音などは残念ながら、ごく僅かしか残っていません。

つい最近Etoileさんという方が、昭和8年にリーガルレコードから出した内山(古関)金子歌唱の「月の砂山」という曲をYouTubeにアップしていましたので、ご興味があれば以下のリンクからお聴きください。

 

https://youtu.be/llxb-eCZZxw

 

この他に資料によれば、昭和6年にヒコーキレコードから古関裕而作曲の「静かな日」と「たんぽぽ日傘」という2曲を出していますので、時折捜しているのですが、今迄見付かっていません。もしどなたかお持ちの方がおられたら、是非聴かせて頂きたいと思っております。

 

歌をやめてからは、株式投資に熱中し、その後は詩の創作をしたり、油絵教室に入って油絵を描いたり、趣味にいそしんでいました。

子育てに専念(?)するために歌をやめたせいか、私にとっては過干渉で過保護の母で、私はしょっちゅう反発していましたが、やがてうまく対処することを覚え、母の意見や小言は適当に、ハイハイと聞き流すようになり、母は私のことを素直な良い子だと思っていたようです。

私が結婚したときは、両親と二世帯住宅での同居で、孫の子育てをめぐって、口を出さずにはいられない母の性格から、お決まりの嫁姑バトルもありましたが、別居するようになってからは、うまく行くようになりました。

母は昭和55年(1980年)7月23日に、乳ガンが全身に転移して、68歳で亡くなりました。

今の医学だったら、もう少し長生き出来ただろうと思いますが、もし今生きていれば108歳。自分がドラマになることを、きっと表向きは、そんなことと、謙遜しながら、内心はとても喜んで、自慢したのではないかと思っています。

(九)

2020/06/07   KITASAN